筒井康隆

全力で嘘に嘘を重ね文に文を連ね読者をずんばらりんと斬って捨てるのが虚構の使い手であって、訓練された読者ならば「こういうこともあっていいノダ」「荒唐無稽であればあるほど嬉しいノダ」「文章が美しければいいノダ」とむしろ斬り捨てられる快感を悦ぶのであるが、日本では『以心伝心』なる言葉に象徴されるように、わたしが相手にやさしくしてやったから相手もわたしにやさしくしてしかるべきだという大前提でこの世界が出来ていると思い込んでいる人が多く、そういった馬鹿が不意に斬り付けられた反動から感情論を振りかざして「やりすぎだ」「不愉快だ」「傷付く人がいるからヤメロ」などとのたまい、己の創作を貫こうとする優れた虚構の使い手すなわち狂人(念の為に言うが褒め言葉)にストップを掛けてしまう。


団体からの圧力、会社からの圧力、作家からの圧力、家庭からの圧力、自己規制そういった暴力的精神的圧迫に負けずそれを反作用に換えて革新的な作品を発表し続けた稀有なファイターが幸運にも日本には存在し、その名は秘匿するが筒井康隆であって、筒井康隆の存在に励まされ自殺を思いとどめた人は万を越える筈である。


(以下延々と筒井賛美の文が連ねられるが過去多くの人が書いた文以上に目新しい要素は特にないので数十行ばっさりと割愛する)


今回、書きたいことはあくまでも虚構への愛に関する事柄なのだが、日本には筒井康隆星新一がいる以上どうしてもどちらかは避けては通れぬ話題なので、続けて筒井康隆に関して書いていく事にする。ぼくが思うにこの二人は読者たちを大いに楽しませた反面、創作者たちを酷く苦しめさせたのではなかろうか。虚構に関する面白そうandヤバそうなネタはこの二人の手によって悉く乱獲され、しかも、それらが僅か数十ページ以下の短編小説となって発表されてきたからだ。

ZAKZAKのインタビューで71歳になった筒井康隆が語るに


創作意欲がなくなったってわけじゃないけど、ちょっぴり書けなくなってきた。アイデアは出るんですよ。それで、「あ、コレ、面白そうだ」と思って書き始めてみると、「あれれ」と思い当たって、調べてみると昔書いてる。忘れてるんですわ(笑)。

                      http://www.zakzak.co.jp/hitorigoto/20060922.html 筒井康隆

なんということだ。虚構のネタを探求し乱獲し続けてきた筒井康隆がもう目新しいネタがないと言語化することによって、虚構のネタは尽きたと宣言されたに等しく、この状況に(笑)と言っていられるのは虚構にさらなる虚構を積み重ねてきた筒井康隆本人だけである。これによって後進者たらんとする者は、筒井康隆たちのネタを使い回して発表するしかない先人を更新してこそ本当の後進者(笑)というジョークを自虐気味に放ちながら、先人たち或いは同業者のネタを使い回してあっコノヤロウ著作権違反だ手前ェパクリやがったな何言ってやがるわしは知らんがなぼくの場合はリスペクトだおれはオマージュというギスギスした未来絵図が予測できてしまう。


しかし、それでもいいじゃあありませんか。集合的意識やシンクロニシティという便利な言葉がある今、そのネタを考えたのが果たして個人限定の財産かどうかも疑わしくなってきた今、北海道から沖縄までネットサーバーの設備が行き届きブログ人口が1600万人を突破した今、もはやオリジナルのうんぬんを論ずるのは馬鹿らしくパロディでもオマージュでもなんでもよいからあるネタを美しい文によって言語化出来ればよいのです。それすなわちニーチェ曰くの強度。


たとえば、ほら、このような秀逸なパロディには素直に脱帽すればよいのです。