ゴールデンバット

ニルヴァーナに到達した一人の男がある湖の畔で茫洋としてどこか所在なさげだった。朝が来て昼が来て夜が来ない。段段と焦れついて彼は自分の頭に乗っていたお釜帽子を湖の水面の上に軽く投げ捨ててポケットからバットの箱を取り出した。その中から一本のバットを取り出し口に銜え手はポケットをまさぐりマッチ箱を探すが一向に見つからない。「ちくしょうめ」彼がアキラメと共に銜えていたバットを戻そうと手に持った時水面の中からごぼごぼと音がするや否やざぱんぴしゃと水飛沫を上げながらシニカルな笑いを顔に貼り付けた男が湖から現れた。太宰であった。
「いよゥ、中也。僕が女の家で自殺志願者の集まる掲示板での彼らの辛苦を吐露した書き込みを多大な共感を以って読んでいる時に何事だね。天井に君の帽子が見えたもんだからすぐさまトイレに駆け込んで便所の中から此処と繋がる僕の尿と女の尿が混じった水面から君の帽子を取り出してやった」
太宰はそう言って水面上を歩いて湖の畔にいる中也の傍にやって来た。太宰の姿は濡れておらず中也の手に渡されたトレードマークのお釜帽子は所々に黄味を帯び始めていた。太宰はにやにや笑っていた。
「アッ、ち、ちくしょう。太宰ッ。この上によくも小便をぶっ掛けやがったなッ」
中也が激怒した。中也は太宰をぶん殴ろうと決意した。中也には太宰の文学が分からぬ。中也は、詩人である。現世ではバットを吸い、小林秀雄と女を取り合って来た。けれども帽子に直接尿を掛けたか或いは徐々に染み付いただけかの違いには人一倍敏感であった。中也は帽子を太宰に投げつけると同時に太宰に飛び掛った。
「この精神薄弱野郎め」「いてて、なんだと、このナメクジ野郎」「あ、いたたた。自殺狂め。また死んでみやがれ。こ、今度はおれの拳で死ね」「いたいいたい痛あい」「こらこらやめんか。太宰君。中原君。やめなさい」
取っ組み合う二人の上に制止の声が割って入ってきた。二人が湖の方を振り返ると水面の上に芥川が立ってバットを燻らせていた。その眼はかつて現世で豪傑谷崎潤一郎を相手に一歩も引かず苛烈な文壇論争を繰り広げた当時の芥川がそのまま蘇ったかのようにギラついていた。二人はたちまちに沈黙した。特に芥川をいたく敬愛する太宰の落ち込みようは酷く、芥川が湖の上から二人の傍まで移動するまでに十回以上「カルモチンを用意しなければならぬ」とブツブツ呟いていた。
「やれやれ、君らの所為で僕がブログに書いていた『剽窃は可か否か』の記事も台無しだ。時代は僕らが生きていた時よりも遥かに進んでいて今では書くべき目新しいテーマなど何もないんだ。当時、支那よりあらゆる漢語を取り入れて文章に組み込み、古今東西の歴史上の人物に小説上で様々な役割を演じさせた僕からすれば創作はもっと自由に向き合うべきなのだ」
二人にそう言って芥川はバットの煙を壮大に吐き出した。相も変わらず芥川は現代でも持ち前の戦闘性を発揮してインターネット上で論争を繰り広げているらしかった。
芥川が吐き捨てるように言った。
「自殺する勇気もない奴らが創作などするんじゃない」
「そうです。その通りです」
太宰が我が意得たりとばかりに頷き中也を見た。三人の中では彼だけが病死であった。ところが中也はそれを恥じる様子もなく三人の中で一番の若死にであったしその死の早さから悲劇の詩人とも悼まれていた事に誇りを持っていたから彼は太宰を睨み返し芥川に言った。
「自殺を自分で選択してきれいさっぱり死ぬならば良いでしょうね。すごく勇気があると僕もそう思います。しかし酒に酔った挙句鬱気味の女にそそのかれてあっさりと死んじまうような人はどうでしょうね」
「な、なんだと。き、きき貴様。おおれの事を言っているのか」
「さあ、どうでしょう」
「お、おれの事を言ったんだな」
太宰が全身をワナワナと震わせぽろぽろと涙をこぼし始めた。太宰の両目から止め処なく涙が溢れてくる。終いに彼は湖の水面をウスボンヤリと見つめながら次の自殺の算段を考え始めた。もっとも今となっては再び死ぬ事は出来ないのだが。
困りきった芥川が手持ちのバットをもう一本取り出し太宰に向かって言った。
「おい、太宰君。もう過ぎたことはいいじゃないか。気を取り直してバットを呑もうじゃないか。今の時代でも我らが誇るバットはあるんだぜ」
太宰が振り返って笑顔になった。
「いいですね。バットを一本頂戴いたします」
「あっ、芥川さん。僕にも火を貸してください」
そして一同盛大にバットの紫煙を立ち上げながら、先程までの騒ぎはどこ吹く風か他愛もない話を喋り始めた。
「僕は両切りを吸わない人が嫌いだ。両切りを吸えない人は煙草を吸ってるとは言わない」
「太宰に同感だなあ。両切りの中でも特にバットが素晴らしい事を皆はあまり知らないのは人生の大損害だね。僕の詩集でも読めばたちまちにバットの虜になるだろうにさ」
「太宰君。中原君。そして僕。僕ら三人がバット愛好家だということはちょっとした文学オタク、煙草マニアなら誰でも知っている事だ。こうして三人が揃ってバットを吸うなんて彼らにとって最高のシチェーションだろうね」
「その通りです。芥川さん。今日もバットが実にうまい」
「すこぶるうまいねえ」
「うまいですねえ」
「ワハハハハ」
「ワハハハ」
「ワハハ」

「しかし、何だか変だな。芥川さん。僕らが三人がここに集ってバットを喫煙する。そのアイデアは確かにスリリングでワクワクして詩的なものだ。しかし、僕の詩人リアリズムから察するに先程の太宰君の行動は不自然ではないですか。まるでリアリティがない。僕が、ええと、彼の死を侮辱するという決定的な一言を放ったにも関わらず太宰君はたった十行程度で立ち直っています。本来ならば、かっとなって殴り合い、どちらかが謝り出すか、口もきけないほどにぼろぼろに打ちのめされていないとおかしいんじゃないですか」
「んむ。ううむ。確かに、そう言えばそうだ。中也ッ。貴様ッ。よよくも僕を侮辱してくれたな」
「太宰君。落ち着きたまえ。しかし、中原君。こうも考えられないかね。僕たちは一度死んだ人間だよ。死んだのだから血肉を伴わない人間のはずだ。君の言うリアリズムを以って僕たちの行動をそう易々と判断する事は出来ないんじゃないかね。なにせ一度は死んだ僕たちだ。一般の感情を持っているとは考えられない」
「そうだぞ。中也。とにかくバットを吸えよ。けけけ」
「あっ見て下さい。芥川さん。太宰君がおかしくなっている。いやもともと太宰君は感情の起伏が激しい性質だから始めからおかしいのかもしれないですけど、それ以上におかしい。この世界は一体どうなっているんですか」
「あっあっ、見たまえ。中原君。太宰君。あそこに見えるのは」
「あっ、あれはF」
「あっ、そうか分かったぞこの世界はI」
「あっ、元々虚構の中のN」